24

アメリカの映画やTVドラマと日本のそれを比べたとき、どうしても気になるのが細部のリアリティというやつだ。とくに24のような犯罪、サスペンス、アクションを題材にしたドラマはそこがある意味生命線なのではないか。もっとも、ドラマの<リアリティ>と僕たちの日常の「現実」は違って当然である。ある種のドラマはこの<リアリティ>をどこまでも高めていかなければならないが、しかしその着地点、到達点は僕らの現実世界ではなく、あくまでもドラマ上の、あるいは映画内の<現実世界>である。例えば、24に限らず最近のドラマや映画には携帯電話が頻繁に登場する。しかしその使用者はほとんどなぜかマナーモードを使用しない。日本人ならボタン音さえサイレントにしているだろうがそれもまずない。それは日常世界では不自然な行為だが、ドラマ上の<現実>では必要な装置なのである。観客には登場人物の携帯電話が鳴っていることがわからなければならないからだ。CTUの支局長ドリスコルの娘がトラブルを起こしたと隣人がCTUに電話してくる設定も現実では不自然である。普通ならドリスコルは、そのような場合には自分の携帯電話に電話するようにその隣人と申し合わせていて当然だからである。しかし、ドラマ上ではCTUの他のメンバーがドリスコルのトラブルを間接的に知る必要があるのである。このようにわれわれ観客は巧みにドラマ上の<現実>の中で物語を追っていくように誘導されていくのである。それでいいのである。ドラマのリアリティを高めることとはその巧みさを洗練することなのである。
しかし、ジャックがいつトイレにいってるのか気になるんだよな〜(笑)。24時間くらいならガマンできるのかしらん。